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番組構成師 [ izumatsu ] の部屋

番組構成師 [ izumatsu ] の部屋

「語り継ぐもの〜それぞれの沖縄戦」

◎『慰霊の日特別番組 語り継ぐもの〜それぞれの沖縄戦』

制作:RBC琉球放送  放送:1998年6月22日

戦争体験がない世代は、どのように戦争を語り継げばいいのか?
知らないことを、あたかも知っているかのように話していいのか?
とても難しい問題です。

沖縄戦の実態を生々しく証言する「語り部」たちに、今、「時の壁」が迫っています。
沖縄戦の体験者は、確実に減っていきます。
戦争を知らない世代は、戦争の悲惨さを語り合い、語り継ぐことができるのでしょうか?

沖縄戦の体験を語る人たちの願いと、その話を聞く本土からの修学旅行生たちの受け止め方を織り込みながら、戸惑いながらも戦争を語り継ごうとする若い人たちの思いを追います。

◆ストーリー概要

沖縄には、戦争中、地元の人たちや日本兵がアメリカ軍の攻撃を逃れるためにひそんだ「ガマ」と呼ばれる穴がたくさんあります。そこで沖縄の人たちは、ある人は自ら命を絶ち、またある人は身方のはずの日本兵から撃たれて亡くなりました。
今でもガマには、苛烈な戦争の跡が残されています。

最近、ガマを訪ねる修学旅行生が増えています。平和教育の一環として、子供たちに見せたい、話を聞かせたいという教師たちが多いのです。
そうした修学旅行生たちに戦争中、ガマで起こった出来事について説明するのは、ボランティアの若い平和ガイドたち。もちろん、彼たち彼女たちに戦争体験はありません。戦争そのものに興味がなかった人もいます。

平和ガイドのある女性は、知人にガマの案内を頼まれるまでは、戦争のことをあまり考えないようにしてきたと言います。

「とにかく見たくない、聞きたくないって、血なまぐさいっていうか、そういうのでずっと避けて通ってきたっていう部分はありましたね」

そんな彼女が、真っ暗なガマの中で、修学旅行の中学生を相手に語ります。

「戦争っていうのは国と国の喧嘩だ。喧嘩っていうのは、殴ったり殴られたりするもんだ。でもこの戦争は違う、殴られっぱなしだ・・・・」


修学旅行生が必ず足を運ぶひめゆり平和記念資料館。ピーク時には一日に5000人以上の修学旅行生が訪れます。
ひめゆり資料館には大きな特徴があります。それは、沖縄戦を体験した「ひめゆり学徒隊」の証言と遺影とが展示の中心になっているということ。修学旅行生た ちは、静かな館内で、沖縄戦でなくなった少女たちの遺影を見、沖縄戦の体験が生々しく記された証言を読むのです。

館内では元ひめゆり学徒隊の女性たちが、当時の体験を自らの言葉で語りかけます。訪れる人の心に食い込む「語り部」の存在も、この資料館を特別なものにしています。

「私たちが話さんと一体誰が話してくれる。生き残った者の務めじゃないかという風な気持ちで、今は話しています。辛い時はありますよ、どうしても」

若くして散った学友たちの面影を胸に、「語り部」たちは孫のような修学旅行生に語りかけます。

「語り部」の話が聞けること。それが学校が沖縄を修学旅行先とする大きな理由のひとつです。引率する教師のひとりはこう語ります。

「教師の側でも戦争を体験してない者がほとんどの時代になってますよね。そしたらどうしてもまた聞きまた聞きで真実味も欠けてくるだろうし。ほんとに忘れてはいけないことなので」

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旅館の広間で、兵庫から来た中学生たちが男性の「語り部」に話を聞いています。男性は沖縄戦当時、まだ8歳。でも、銃を手に戦い、右腕を亡くしました。

「腕の真ん中を打ち砕かれて、靴のひもを抜いて血止めをして、首からぶらさげて・・・・だんだん腐ってきて・・・・仕方がないから、木の根っこに自分の腕をつって、ひと思いに自分で切りました」

子供たちは、男性の顔を食い入るように見ています。

「皆さんには戦争に反対するだけに留まらないで欲しいんです。社会的な地位も築いて、戦争を起こそうとする人たちをそういう考えにさせないような、そんな人になって欲しいんです」

男性の話が終わりました。何か質問がないか、引率の先生が生徒たちをうながします。でも、誰も、何も言うことはできませんでした。

話を終え、帰ろうとする男性のあとをひとりの女生徒が追いかけてきました。そして泣きながらこう言うのです。

「今日、お話しを聞いて、今、決めたことがあったんです。
沖縄の戦争があたしたちの教科書には1ページしか書かれてないんです。
それで終わってるのがすごく悔しいんです。
あたし、今日、ずっと聞いてて決めたことがあるんです。
それをどうしても聞いてもらおうと思ったんです。
あたしは、将来、絶対に教科書を書きたいと思うんです。
ちゃんとした、1ページで終わらない。
それを聞いてもらおうと思ったんです。ありがとうございました」


空港に到着した兵庫の中学生たち。
三日間の修学旅行が終わろうとしています。その感想はいろいろです。

「ガマとかがすごい暗かったんで、こんなところで生活しているのがすごい。びっくりしました」

「映画とかと全然違うし、怖かったな、映画よりも」

「沖縄の人は怒ってました(笑)、いろんなことに!」

ほんの少しだけ触れた沖縄戦。中学生たちの心に残り続けてくれるでしょうか?

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6月23日は沖縄戦が終わったとされる「慰霊の日」。沖縄の学校では沖縄戦を学ぶ授業が行われます。ある中学校では、まだ若い先生が体験したことのない戦争を生徒たちに教えています。

「じいちゃん、ばぁちゃんから戦争の話を聞いたことがある人?」

数人の子供たちが手を挙げます。

「誰から聞いた?」
「じいちゃん」
「どんな話、してた?」
「対馬丸に乗ろうとしたけど、いっぱいだったから、違う船に乗って助かった」

先生はもちろん戦争体験がありません。身近な人の話をヒントに、生徒たちが自分自身で考える力を身につけて欲しい。先生はそう願っています。沖縄はその環境に、今はまだあるのです。

「方言使ったらさぁ、お前はスパイだって殺されたって、おばあが」

みんながドッと笑います。

「いや、あたってる、あたってるぞ」
「でしょう、あたってるでしょう?」
「じゃぁ、方言使ったら、誰に殺されるの?」
「日本兵、身方から」
「身方? 身方っていうのはわったを、沖縄の人を守ってくれるんじゃないの?」
「アメリカの方が優しかったって、ケンカしたって、おばあちゃん」
「はぁ? ばぁちゃんとアメリカ、ケンカしたわけ?」
「違う違う、日本兵で、イモ、とられたから」
「ばぁちゃんはイモ、とられたわけだ」
「(笑)」
「出てきたね、新事実。ね。同じ身方の日本兵にイモとられた、おばあは怒ってケンカした」
「そしたら、なんかバットみたいなので、お尻、殴られたって」
「バットでお尻を?」
「うん、日本の人に」
「あきさびよ〜!」
「(笑)」

明るい笑いに包まれながら、沖縄戦を考える授業が続きます。

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沖縄をフィールドワークの対象にしている大学も数多く、明治学院大学には沖縄での校外学習を毎年行っているゼミがあります。沖縄の__ユを訪ね、生存者に当時の話を聞くのです。担当教官は沖縄に行った学生たちの反応をこう語ります。

「頭で学んだことだけでは分かっていなかった部分が初めて分かった、感じ取ることができたという、積極的な感想が非常に多いですね」

ところが、1991年、沖縄でのフィールドワークをまとめた明治学院大学の報告書をめぐり、論争が置きました。報告書の中に沖縄戦体験者を侮辱していると思われるような表現が多数あったのです。例えば・・・、

「ひめゆりでは被害者100パーセントの顔をして、『さぁ、どうだー』という感じでひけらかされた」

「不謹慎なことを言わせてもらえば、『酔ってる』かもしれないとも思った」

フィールドワークに協力した沖縄国際大学の学生たちは反論集を作成。そのいきさつは沖縄の新聞にも取り上げられました。
沖縄国際大学の担当教官は、大学生が行うフィールドワークにしてはあまりに学習が不足していると厳しく指摘します。

「事前学習とか予備知識ですね、それをきちっとやっておけばですね、真っ当に受け止められるものがほとんど」

一方、戦争を知らない世代の、包み隠しのない、素直な意見だと評価する人もいます。

「突きつけられた事実があまりにも激しくて重いもんだったんで、それがひとりの人間として、ハタチそこそこの子が受け止めきれなかったんじゃないのかなぁ」

「要するにお互い、自由な意見を言いながら、お互いの立場で、お互いが感じたことを話し合う。そこを出発点にする以外にないじゃないですか。だから、あの論争自体非常にいいことだったと思うんですけどね」

本土の学生たちの姿勢に厳しい目が向けられる一方で、沖縄に生まれ育った若いウチナンチューの沖縄戦への姿勢も問われています。ボランティアで平和ガイド をしている人たちは、本土からやってくる若い人たちよりも、沖縄の生徒、学生、そして教師たちの意識の方が低いと感じています。

「沖縄戦とか基地問題とか、勉強しているのは、内地からきた人の方がね。ウチナンチュー、勉強してるのは、皆無に等しいって言ったらおかしいんだけど、あんまりいませんね」

「沖縄戦なんてもういいじゃないかっていう、なんでわざわざ50年も前のことをっていう風な感覚があると思うんですよ。だからある意味、沖縄戦の勉強に対 して拒絶反応を示すのは、うちの大学だと沖縄出身の子の方が多いと思うんですよね。身近にあるからもういいじゃない、いらないよっていう感覚がある」

沖縄戦を語り継ぐ。それは、ウチナンチューとしての意識が俎上にのぼっていることに他ならないのです。


今でも時折取り上げられる本土の学生の文章があります。それは、ひめゆり資料館への感想でした。

   これでもか、これでもか、と押し寄せる女学生の顔、顔、顔。
   そして惨事を綴った手記。私はもう嫌だった。
   戦争の惨事は確かにこれでもか、これでもかの砲撃だったのだ。
   嫌だの問題ではない。それくらい分かっている。
   私はこの資料館の悪意が嫌なのだ。
   悪意と呼ぶには余りにも失礼なら死者とその生き残りの者、
   その同窓生たちの怨念が嫌だったのだ。
   これじゃ自己完結してしまいそうだ。

この感想に共感する沖縄の人たちもいます。

「ある種のひっかかりも含めて正直に書いてる、ひっかかったんだけど、自分はこういう風に受け止めた。要するに、それまでの自分の人生体験を含めて、考えた」

「ヤマトの学生が見ると、ちょっと違和感を覚えるんじゃないでしょうかねぇ。それはそれで非常にいい感じ方だとは思いますけど」

戦争を知らない学生同士が見せた意識の違い。それは、まだ沖縄戦の体験者がそばにいて、そして基地の存在が日常化している沖縄と、戦争を実感する機会が少ない本土の違いなのかもしれません。
しかし、戦争そのものはお互いに実体験していません。互いの相違と共通点を認め合う。沖縄と本土の若い世代が戦争を語り合う時、そこがスタートラインとなるのです。

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沖縄戦を体験した人のほとんどは「語り部」として人前に立つことはありません。自分の体験を語らずに、心の奥底に秘めたまま、静かに老いて行くのです。

そうした、語らない人たちの体験を少しでも記録し、沖縄戦が風化するのを防ごうとしているグループがいくつかあります。読谷村には体験を地元の言葉で語ってもらい、その様子をビデオで記録し続けている人たちがいます。

「体験を語る時の言葉、その時の表情というのは、もう、島言葉でしかできないという、そういうことがあるんでね」

確かに、自分が使い慣れている言葉で語ると、悲惨な体験も鮮明によみがえります。話は生き生きとなり、その内容も生々しさを増すのです。

「まだナマの人がいるわけよ。だからそこにこだわった方がいい。結局、今しかない。あと何年かしかない。だから、それをまだ言葉が分かる僕らがやらないかんという気もしてる」

40代、記録を続ける男性の言葉です。


戦争を知らない世代が沖縄戦を語る。いずれそうならざるを得ません。でも、戦争を体験することなしに「語り部」となることができるのでしょうか?
ボランティアで修学旅行生を相手にガイドをしている若い女性は・・・・、

「最初は戦争体験もないのに沖縄戦の話なんかをするっていうのは抵抗があったんですけど、二度とそういうことを引き起こしたくないから、体験者は黙ってる わけだし、そういう気持ちをやっぱり自分たちがどう受け止めるのかっていうのが、すごく問われているんだなぁという風に思って」

ひめゆり資料館では、修学旅行生を相手に、戦争の体験を語る講和を行っています。目の前の、何も知らない子供たち。彼らに戦争の実態を伝える。「語り部」はその重い役目を背負っているのです。
語るたびに辛い思いに襲われる。それでも自らの体験を語り続けてきたひめゆりの人たち。それだけに、若い世代が引き継ぐことに対する思いは複雑です。

「真実というのを体験した、それからほとばしるものがどの程度伝わるのか、それがとても気になるんですけどね。一番困るのは、伝えていくうちにだんだんゆがめられていくのが・・・・心配なんです」

「若い方が替わりになって話すということはちょっとね、その方も戸惑うはずだし、聞く方も、ちょっと無理じゃないかなぁと思うんです」

心の傷をあばくような、個人的な体験を他人に語って欲しくない。そういう気持ちが「語り部」にはあります。一方で、その体験をのちのちまで残したいという思いも、もちろんあるのです。

「二度とこんなことをさせないと、皆さんに知っていただいて、考えていただいて、語り継ぐ役目を引き受けていただきたい。ずっと風化させないで、いつまでもね、孫までもね、語り継ぐ役目を受け持っていただきたいというのが願いですね」

「語り部」たちの心も揺れています。

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中学校で「慰霊の日」から始まった沖縄戦についての授業。先生の質問は、基地の問題へと進みます。

「テレビでよく、基地は必要か必要じゃないか、とかいろいろ言われるさ。海上ヘリポートがどうのこうの、言ってるさ。わった生活に関係あるか? ある?」

この中学校は、普天間基地滑走路の延長上にあります。周囲には、基地の中で働いている人もいます。基地はまさに生徒たちにとって日常なのです。

「基地さぁ、あたしはさ、なくさなくていい派なわけ」
「なくさなくてもいい派?」
「軍があったら、軍がお金払ってくれるし、税金とかも全部払ってくれるし、その土地持ってる人は、お金入るさ、年に」
「この、クーラーびんびんの快適な生活は、はっきり言って基地のおかげだよね? クーラー、なくなってごらん、もう地獄だよな。最悪だよね。なんか、反対意見、ありますか?」
「ない方がいいんじゃない。沖縄に多すぎるさ。沖縄じゃないところにちょっと移して」
「いや、あった方がいい」
「なんで?」
「ケンゴのうちに泊まれなくなる」
「はぁ? ケンゴのうちは基地の中か?」
「あと、ビザがでっかい」

確かに基地のピザはでかい! 生徒たちはドッと笑います。

「基地は戦争をするための施設だろ? だから大砲とかあるわけだろ? 戦闘機とかあるわけだろ? だから戦争がなくなれば、基地なくなるさぁな、ラッキーだな。でも、できるかな?」
「ムリ!」
「なんで?」
「働いている人がいる」

沖縄の置かれている立場、その抜き差しならない立場が、戦争を体験した人の心のジレンマになっている。そういうことを感じてくれればいい。先生の思いです。

「基地はなくした方がいいっていう意見もある、あった方がいいって言う人もいる。でも、基地がなくなったら職場がなくなる、土地代が入ってこなくなる。で も、基地があったら、騒音問題とか、サンゴがなくなるってのもある。どうしよう? どうする? 先生、わからんくなってくる。どうしたらいい?」

生徒たちは懸命に頭をひねります。

沖縄に基地はあった方がいいのか、ない方がいいのか?
先生は多数決をとることにしました。

「これから沖縄、皆さんが担っていきます。皆さんが沖縄の先頭に立って行きます。だから、基地をどうすればいいのか。あった方がいいのか、ない方がいいのか、ふたつにひとつ。どっちかに必ず一回、手をあげれよ。じゃぁ、あった方がいいと思う人、手をあげて!」

手をあげる生徒たち。その結果は、基地はあった方がいいと思う者、18名。ない方がいいと思う者、17名。中学生たちの意見は、きれいに分かれました。
この数字、明日になれば変わっているかもしれません。しかし、こうして互いの考えの違いを知るところから、語り合うことの大切さを知るのです。


明治学院大学の学生たちは、来年の春、沖縄でのフィールドワークを計画しています。沖縄戦の戦跡に自分自身の足で立ち、沖縄戦の体験者から当時の話を聞きます。そして沖縄戦を知らない沖縄の若者たちとも語り合いたいと思っています。

ボランティアで平和ガイドを続けている若い女性。彼女のような、沖縄戦を語り継ごうとしている若い人たちが、本土からやってくる学生たちに沖縄戦の実態を正しく知らせる役目を担うことになります。

「ただ戦争体験者の、言葉を伝えていくんですけれども、それだけじゃただのリピーターになってしまうっていうか、そうじゃない、何かを伝えなくちゃいけないんじゃないかなぁって。
そういう意味では始めた時は、私なりにすごく大きな決心だったんですけど、始めてしまってからも続けるのって簡単じゃないなぁって思ってるんですけど・・・・。
ただやっぱり、体験者がほんとに50年以上話し続けてるっていうか、そういう思いにやっぱり答えたい、そういうのがあります。
二度と戦争を起こしたくないっていうそういう思いが」

沖縄戦を体験した人の言葉は、熱く、重く、聞く者の心に切り込み、離れることがありません。ひとりひとりの体験は、それぞれがただひとつの、唯一無二の体験で、他人が語ることはできません。
だからと言って、あの戦争を生き延びた人たちの貴重な体験が風化してしまうことはなさそうです。
体験したことのない戦争。その残像を日常生活の中に見いだしながら、次の世代は戦争を自らの言葉で語ろうと、今、模索しているのです。

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◆制作の思い出

戦争体験がないのはぼくも同じで、インタビューに答えるおじいさん、おばあさんの映像を見ながら、聞きながら、同じ思いになれない、想像力の乏しい自分をいらただしく思いました。
ディレターのO氏はぼくと同い年なので、彼も戦争は知りません。戦争を知らない制作者が、戦争を知らない若者は戦争をどう語り継ぐことができるのか?という番組を作ろうというのですから、困ります。構成するのが難しいテーマでした。

番組が完成した深夜、O氏と一杯やりました。すると彼は僕に向かい、
「冷たい人って言われるでしょ?」
と言うのです。
彼が一生懸命とってきた映像やインタビューをぼくが片っ端から「いらん」と切り捨てたことが、かなりアマタにきていたようです。
「冷たい」 う〜ん、確かによくそう言われます。
「殴ってやろうと思った」と言われたこともあります、実は。

しかし、たとえ死ぬ思いで録ってきたインタビューであろうが、世界初の映像だろうが、番組構成上、いらないものはいらないのです。だから、「いらない」と言うしかない。
ハナから使わない前提で構成しているわけじゃありません。なんとか意向に添うよう、ぼくなりに努力してはいるんです。
ですから、ぼくとしては申し訳ないなぁと思いつつ、遠慮しいしい、言ってるつもりなんですが、言われる方はそうじゃないんですよね。それはよくわかります。
機嫌悪いなぁ、怒ってるなぁ、と感じながら、知らんぷりをするのは疲れます。

でも、冷徹なのが構成師唯一の役割だと思っていますから、退けと言われても退けない時があるのです。特に、ディレクターにどんな思い入れがあろうとも、それを入れると番組の流れをさまたげ、何が何だかわからなくしてしまうモノ、それは絶対にダメです。

視聴者にわかってもらえないと番組を作った意味はありません。だからよくある、ディレクターだけがわかっているような、ひとりよがりのドキュメンタリーを見るとムカッとくる性質です。


何はともあれ、一緒に仕事をやらせていただいたおかげで、O氏とは仲良しになりました。


しかし、『戦争を知らない子供たち』という意味では、2003年の今、60歳になろうとする人も、幼稚園児も同じなんですね。
でも、まさに今この瞬間に、戦争のさなかを逃げまどう人たちもいる。それも老若男女問わずです。
「オレ、こんなことしてていいのかなぁ」って、時に思います。

(2003年10月記)


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